2007年04月30日

旧都を訪ねて

28日、29日で関西に旅行に行きました。
今回行きたかったのは難波宮跡、平城京跡。
直接現地に行けば古の人の残り香を感じられるかな?など思っていたのですが、平城京跡はお祭りでにぎわっていたのでちょっと創造力が湧かなかったですが、難波宮跡はすっかりタイムスリップしてしまいました!
最初に跡地で、ここで中大兄と間人が禁断の恋に身を焦がした?とか、ここには軽大王の怨念がこもっている?とか、前期難波宮が火災で焼ける様子とか、後期になってから都市機能を備えたこの宮の玉座に座る氷高内親王の様子を思い描いたりしていました。
そして「大阪歴史博物館」の10階では難波宮をいろいろな角度から展示していました。
たぶん1時間以上この階でフラフラしていたので閉館時間が迫り残り7・8・9階は「見た」って程度になってしまいましたがicon10本当に得るものが大きかったです。

この小説の中では天武天皇の死の直前に書かれている日本書紀の前期難波宮焼失事件の記事と大津皇子事件をリンクさせて書きたいのでとても刺激になりました。
大津皇子事件の前哨として難波宮消失事件があった、って解釈は間違ってはいない、と勝手に自分の中で結論づけていましたface02
そしてこの小説の終点までやっと1本の線でつながった感じです。

あとは大津皇子事件の鍵となる新羅僧行心のイメージの構築なのですがこれがどうもイメージが湧かなくて。
大津皇子に同情的に書かれたとは言え、懐風藻は大筋合っていると思うんです。
そうすればやはりそそのかしたのは行心。そそのかされているのがわかっていても乗るしかなかった大津皇子の哀しさ、そして行心の黒幕は鵜野皇后、と想像する方や、本も多いですがそんな単純な話ではなかったのでは?ってところがうまく表現できると良いなぁ、と改めて思いました。
筆力に乏しい私ですがめげずに自分が思い描く世界を表現できたら!と思っています。

あ、そうだ、あと藤原史(後の不比等)の登場のさせかたが定まらないんですよね(((・・;)
案外史は腹黒い人ではなくその時点、時点で彼にとって一番最良と思うことを実施した。
その結果の積み重ねが永続する藤原氏を作ったワケですが元から後世まで残る藤原氏を意識できるほど彼の世にはゆとりがなかったと言うか他氏を先んじることだけを念頭に入れていたのでは?と最近では考えています。

何となく私の中ではこの時代は明治維新と似ている気がしています。
白村江と壬申の乱で絶えず外からの侵略の危機にさらされた時代。
天武天皇は新羅の力を借りて壬申の乱の勝利したものの、乱後はスピード解決と大らかな政治で国を割って他国につけいらせる隙を与えず数々の改革を成し遂げ国力をつけていった。
その偉大なる天皇に死が近づいたことで陰謀が展開される。
再びこの国に壬申の乱を起こさせ、新羅はどちらかに援助する。
唐さえ追いやった自分達の兵力ならば担ぐ御輿があればそれで良し、その担ぐ御輿が……。
そしてその陰謀の中心が難波宮……。
よし、これで大丈夫!!と難波宮跡を見て思った私でした♪


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Posted by jasmintea♪ at 08:50│Comments(0)コーヒーブレイク
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