2007年05月17日

未来への伝言

訳語田から戻った私は志斐に声をかけられた。
「大名児様、先ほどから草壁様がお待ちでございます。草壁様をお待たせしてどちらへお出掛けでした?」と棘がある声で聞いた。
もちろん志斐は私の行き先を知っている。
「志斐はさっき、大名児は大津のところへ行ったって教えてくれたじゃないか。」草壁様が笑いながら入ってきた。
「そうでございましたか?」
草壁様がいらっしゃると志斐は機嫌がよくなる。
今もこぼれんばかりの笑みだった。
「志斐、すまぬが少し大名児と話をしたい。母上が戻られたら知らせておくれ。」
「かしこましました。」

志斐が出ていくと草壁様は目を閉じ、「雨乃」と呼びかけた。
いつもの草壁様はこの名前を知らないから今、私の目の前にいるのは神様の声を聞ける草壁様だ。
「雨乃、最近この身は霊力を使うとひどく疲れる。いずれ数年の間に私は眠りに入り、母上のように目覚めることなく死んでゆくのであろう。」と淡々と言われた。
…そんなこと、ひどい。何て理不尽なのだろう。今の草壁様は2人の子供の父親なのに。
「草壁様の身を借りているタカミムスビ神、草壁様に霊力を使わせないで!あなたは草壁様から出ていって。草壁様は阿閉様や氷高様、軽様と幸せに暮らしているのよ。いくら神様だからって草壁様の命を奪う権利はあなたにはないわ!」
私は興奮しながら椅子から立ち上がり目に見えない神様に抗議をした。
草壁様は驚いた顔をしたが、すぐに優しいお顔になり私に静かに言った。
「雨乃、ありがとう。そなたの気持ちは嬉しい。この通り礼を申す。」と私に頭を下げた。
「だがな、神の声を聞けるかどうかに関わらずこの身の寿命は決まっておるのじゃ。吾は今日、そなたに大事なことを頼みたい。だから気分を楽にしてしっかり我が願いを聞いてもらいたい。」
「はい。申し訳ありませんでした。」私は短絡的に怒ってしまった自分を恥じ、草壁様に頭を下げ椅子に座った。
「吾にはすべての未来は見えぬが断片的に見える。」
「はい。」
「この身が短いということはわかっておる。そうなると次のスメラミコトは大津じゃ。吾らはスメラミコトの子供ゆえ吾らの意思とは関係なく利用されてしまうことがあるかもしれない。最近大津の側には新羅の僧が侍っていると聞く。大津は心優しい男じゃ。頼られればいざという時に周りの者の気持ちを優先し自分の意としない行動をするかもしれない。吾はそれが心配なのじゃ。くれぐれも他人の思惑に巻き込まれずに身を大切にしてほしい。そのためには雨乃、そなたがそばにいて大津を見守ってほしい。」
そうか。さっき漠然と行心に感じた不安はこういうことだったのか。
「草壁様、私にそんな力はありません。今、草壁様が言われたことは私も不安に思いましたがどんなことなのかまではわかりませんでした。こんな私が大津様を助けることなどできません。」
草壁様は優しく微笑みながら
「大丈夫じゃ。そなたとの愛が本物ならば大津は絶対に無理をしない。そなたはただ大津を愛すれば良い。」
私は頬を染めうなづいた。
「雨乃、あともうひとつ吾に見える未来があるのじゃ。これは吾にも意外なのだが氷高が玉座に座っている。父上の皇子があまたいるし、何故女子である氷高が玉座にいるのかはわからないが神のお告げに偽りはないであろう。もし、吾の身に万一のことあらば母上にこの話を告げ氷高を守って欲しい。先の地震の時もそうであったが氷高は吾より強く神のご加護を受ける身かもしれぬ。」
…確かに氷高様の神秘性は私にも理解できる。そのご容貌からして神がかって見えるお方だ。
「わかりました。私は氷高様が大切ですのでいつでも自分にできることはしたいと思っております。」
「そうじゃな。そなたはまるで氷高の姉のようじゃ。近頃は神の意思を考え氷高に教育をせねばと考え中臣史と申す様々なことを教えてくれる者をつけておる。しかし何と言っても氷高はまだ幼子であるし女子じゃ。そなたが史と氷高の間に入ってやってくれ。しかし、もしかしたらそなたは氷高を守るためにもここにきたのかもしれぬのぅ。」
今日の神の声が聞ける草壁様は優しい。
こんなに優しい草壁様の未来が残り少ないなんて。
私は草壁様の未来への伝言を全身で受け止めようと努力していた。
と、その時、、、、
「大名児、大名児、志斐を呼んでくれないか。」
と、草壁様が言った。大名児って草壁様は話の途中でいつもの草壁様に戻ったのだろうか?
何か変だ。私は急ぎ控えまで走り志斐を呼んだ。
「草壁様、お呼びでございましょうか?」志斐は急いできた。
草壁様は苦しげな息遣いで「志斐、母上のことでそなたに頼みたいことが………」
とまで言って顔が真っ青になり倒れこんでしまった。「草壁様!どうなさいました!」
「誰ぞ、薬師を」
「皇后様にお知らせを」
みんなが口々に叫んでいる。
この息遣いの荒さ、指の痙攣は以前運ばれた患者さんと同じ、過呼吸ではないだろうか?そうだ、これは過呼吸だ!
「志斐、袋!スーパーのビニール袋!!」と私は叫んでからここにそんなものがあるわけないと気がついた。
…落ち着け、落ち着け、そうだ、あの雨の日に買った頭痛薬とのど飴が入っていた袋がカバンの中でそのままになっている。
私はこの時代の走りにくい靴を脱ぎ捨て裸足になって自室に向かい走り出した。
バッグ、バッグと独り言を言いながらバッグを取りだし、袋を持ってまた走った。
草壁様の元に戻るとさっきより顔が青くなり呼吸がうまくできずにゼイゼイ言っている。
「志斐、草壁様の体を起こして!」
「お体には触れられません。」
「何を言ってるの。至急よ。良いから早く!」
志斐はおそるおそる草壁様の上半身を起こし私が少し隙間を作りながら袋を口にあてる。
「草壁様、この袋の中で息を吸ってはいて下さい。大丈夫ですから私の言う通りにして下さい。そうです。それで良いです。上手です。そのまま袋の中で呼吸して下さい。そうそう呼吸はちゃんとできますからそれで大丈夫です。」
ちょっと呼吸がさっきよりできるようになったようだ。
「今度は少しゆっくり呼吸してみましょう。私が数を数えますからからそれに合わせて下さい。はい、いち、にぃ、さん、そうです。そのままの速度でいち、にぃ、さん」
志斐も同じ速度で一緒に呼吸をしている。
「はい。随分呼吸できるようになってきましたね。一度ゆっくりと息を吸ってはきましょう。吸って、はいて。もう一度、吸って、はいて」
私は袋を外した。
「はい。もう一度吸って、はいて。これで大丈夫ですね。苦しくありませんよね。」
草壁様は目でうなづいた。
…はぁ、、、良かった。志斐の目からは大粒の涙がこぼれて落ちていた。
「まだ立てませんのでこのまましばらく志斐の膝枕でゆっくりなさって下さい。志斐、そのままゆっくりと自分の膝に草壁様の頭をのせるように草壁様が楽に寝転がられるよう座って。ゆっくりね。」
志斐は緊張した面持ちで寝入った赤子が起きないようにそっと寝かしつけるように草壁様の頭を自分の膝にのせ座った。
「草壁様、まだお手が震えると思いますが呼吸が止まっていたためですのでご心配ありませんから。瀬奈、草壁様にかけるものをお願い。」
と、後ろを振り返ったらそこに皇后様が立っていた。
いつ、入ってこられたのか夢中で気がつかなかった。
そして、皇后様の隣には華奢な体型で端正な顔立ちをして、理知的な瞳の青年が立っていた。


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Posted by jasmintea♪ at 12:51│Comments(0)小説
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