2007年07月05日

約定

朕にも無邪気に笑う幼き時代があった。
祖父様がいて母上がいて、姉上がいて、朕は大好きな興志叔父上の膝にいつも座り甘えていた。
お姉さまには「讃良の甘えっこ」などとからかわれていたが朕は何より叔父上の広い背とすっぽり座れる膝が好きだった。
父上は子供をかわいがる人ではなく祖父様はいつもお忙しく、朕に暖かい愛情を注ぎ心を満たしてくれた男性は興志叔父上1人だった。
しかしその、姉上と母上と朕の幸せを奪ったのは他でもない父上…。
ご自分の必要とする時には力を借りておいて、祖父様の正論を快しとせず、古き冠を用いたのをきっかけに日向に讒言させ祖父様も叔父上も一夜にして謀反人にされてしまった。
でも今ならわかる。あれは父上は葛城から蘇我へと継がれた莫大な人財と財産を欲しただけではなかったのか?
罠をかける時には同族を使う、あれが父上と鎌足の手なのじゃ。
追っ手がかかり難波から落ちてきた祖父様を叔父上は今来まで迎えに行き、朕を翁に託した。
「讃良、我らは中大兄様に忠誠を尽くしてきたのにこのような仕儀になったことはまことに無念でならぬ。じゃが葛城の血は我が母からたった1人の妹遠智の中に流れ讃良にと継がれている。この気高き血を残してくれ。良いな、何があっても負けてはならぬ。強く生きるのじゃ。強く生きて我らは謀反人ではないと天地に知らしめてくれ。」
叔父上はこの言葉通り徹底抗戦を望んだが祖父様は「願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ」と従容として死に臨むことを選んだ。
そして叔父上は戦わずして亡くなり死後に首を落とされた…その無念さを思い幾度悔しさと憤りに震え眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
幾度の夜を叔父上の背と膝のぬくもりが恋しくて人知れず瞳を濡らしたのだろう。
そうだ、朕は叔父上の無実と無念を伝えなくてはならぬ。
そのためにも…


…朕は心配そうに覗きこむ高市の視線で現実に戻った。
「高市、わかりました。朕と翁がそちの後ろ盾となりましょう。」
「皇后様、ありがたきこと。」
高市様は皇后様に最敬礼をしていた。
「ただ高市、ここではっきり申すが約定してほしいことがあります。」
「何でございましょう?」
「まず、ひとつ、朕に断りなしに兵を動かさぬこと。」
「かしこまりました。兵に限らず天地のことは大事小事を問わず皇后様にご相談申し上げるつもりでした。」
「はい。ふたつ、高市の次の御位には草壁をたてること。」
「もちろん承知でございます。」
「最後に変則的ではあるが皇后は立てないでもらいたい。そちの後ろ盾は朕なのじゃから皇后は必要ないであろう。」
「かしこまりました。この宮の取り仕切りはすべて皇后様にお願い申し上げます。」
「高市、理解ってくれてありがとう。感謝します。」
「とんでもありません。皇后様、吾からもひとつだけお願いの儀があるのですが申し上げてよろしいでしょうか。」
「何でしょう?」
「長屋に草壁の女王を賜りとうございます。」
「高市、それはすまぬができぬ。氷高は家刀自であるし葛城を継ぐやもしれぬ身じゃ。」
「いえ、皇后様、氷高女王は天女にございます。人の身で天女を望むとは畏れ多いこと。もし草壁に次の女王が産まれし時で構いませぬ。それでも我が願いはお聞き届け頂けませぬでしょうか?」
「わかりました。それで良いなら承知としましょう。」
「ありがたきことにございます。」
「ところで高市、話は変わりますが難波宮焼失に関し、今、筑紫にいる金智祥を足止めするのと妙な動きができぬよう監視するのを目的に饗応役として人を派遣したいのですがよろしいですか?」
「承知でございます。」
「朕は大嶋を任命するゆえ高市も腹心の者をやると良い。」
「はい。そうしましたら、、吾は大伴安麻呂を。」
「わかりました。では河内王を長とし、あと何名か人選し数日のうちに出立させましょう。」
「なるべく早いほうがよろしいですな。」
「はい。あともうひとつ、今まで遠慮して藤原の名乗りをあげていなかった大嶋と史ですが今回の働きにこたえ通名も藤原にさせますが構いませぬか?」
「はい。今回の両名の働きに吾も感謝しているとお伝え下さい。」

こうして皇后様と高市様の事実上の共同統治が始まった。

…あとから振り返ればこの時の朕は軽率だったかもしれない。
高市の判断だけで軍事力を行使できないよう足かせをし、何かあった場合に備え御名部を皇后にたてぬことで阿閉の優位を保ち、高市から草壁への道を約束させたことで満足してしまっていた。

そして…。
「草壁様の娘を高市様の息子に」
この約定が後に大きな悲劇を呼ぶことになるとは言い出した高市様にさえ想像できないことであった。
自分の悲劇の第2幕がここから始まったとは私は知らない。


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Posted by jasmintea♪ at 12:42│Comments(0)小説
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