2007年08月01日

最後の抱擁

大津様が入ってきた。
初めて会った日と同じように靴をかつかつ鳴らして。
そしてやはり初めて会った時のように闊達で清々しい声で私に話かける。
「大名児、久しぶりだったの。息災にしておったか?」
大津様の声、愛を囁いてくれる時は低くくぐもり、気持ちをぶつけあったあとはかすれた声になり、普段は涼やかに響く。
私はいろいろな折りに発せられる大津様の声が大好きだ。
…このお声が聞けて良かった。
私は喜びに何も言わずに大津様の胸に飛込んだ。
涙が次から次へと溢れていく。
「どうしたのじゃ。」
「ずっとどうなさっているか心配致しておりました。お顔を見たら嬉しくて言葉より涙が先に…。」
語尾はかすれて声にならない。
大津様はしばらく私をなだめるように優しく抱いていてくれた。
私はその暖かな温もりに少しづつ自分を取り戻していった。
「大津様、申し訳ありません。今日は大切なお話がおありなのですよね。」
私は大津様の腕から離れ椅子に腰掛けた。
「大津様もどうぞ。お話を賜ります。」
精一杯にこやかに微笑む。
「そなたに言い残しておきたいことと、頼みがあるのじゃ。大切なことなので取り乱すことなく最後まできちんと聞いてもらいたい。約束できるか?」
私は嘘がつけない。
「努力してみます。」
大津様はニッコリ微笑みうなづいた。
「実はの、先日、新羅の使いの者に会ったのじゃ。」
「行心とは関係なく?」
「いいや、仲立ちをしたのは行心じゃ。新羅の使いは吾に向かいこう言うた。『我が新羅はこれまでも英明な大津様がこの国を統べることを願い大いに支援して参りましたがこれまで以上に物的、人的支援をさせて頂く覚悟ですのでどうぞ何でもお申しつけ下さい。万一、大津様の御身が危なき時はお守り致しますのでどうぞ我が新羅へおいで下さりませ。』と。」
私は自分の血の気が引いていくのがわかった。
「支援して参りました、とはどういうこと?」
「そうなのじゃ。同席しておった道作の顔色がすぐに変わっての、聞けばすでに道作は新羅の援助を受けて難波に吾の即位のための宮を作ろうとしていたそうだ。以前そなたに話をしたが美濃の者を破格の待遇で大量に召抱えていたのはそのためだったのじゃ。」
「そんな…」
「難波の宮が焼失して計画が頓挫してより今度は新羅を難波に引き入れ美濃と双方向から明日香を挟み撃ちにすることを考えた。じゃが、これも難波を押さえられたので無理と諦めた。諦めたところでどうやら新羅が不審に思い動きに出たようじゃ。」
「大津様、それではご謀反になってしまうではありませんか。」
「そなたの申すとおりじゃ。ここまで計画ができていれば吾は謀反人じゃ。弁解のしようもない。でもの、大名児、吾は道作を責める気にはならぬ。そして道作1人に罪をかぶせるわけにもいかぬ。道作はただ吾の行く末を案じ考えただけのことなのじゃ。」
「でも…。」
「父上にもしものことがあらば、いや、それは遠くないうちに必ずやってくる。その時は新羅の手の者が吾を迎えにくる手筈になっておる。じゃが、吾は新羅の意のままに生きこの美しい国が乱れるもとにはなりたくない。吾は神と仰がれた父上の子なのじゃ。この国を出て吾を慈しんでくれた叔母上に背き敵となってまでこの命を長らえること、断じてできぬ。」
もう私に言葉はなかった。
「大名児、それでそなたに頼みが2つある。吾は父上が亡くなられたら新羅の手から逃れるために道作と美濃に向かう。吾がいなくなったら美濃へ抜ける関を固め美濃に入る前にこの身を拘束するよう進言して欲しい。そして万に一つ、この身が新羅の手に渡りそうになれば…。」
「……」
その続きは言わないで!聞きたくない!と叫びたいのに声が出ない。
「吾も一緒に父上のところに送ってくれるよう、叔母上にお願いしてくれ。」
「…大名児、愛しいそなたにこのようなことを頼み申し訳なく思う。じゃがこのことはそなたにしか頼めないのじゃ。吾はこの国を戦乱に巻き込むより謀反人と誹られる方を選ぶ。この吾の意思を叔母上、いや、皇后様にきちんと伝えられるのはそなただけじゃ。頼む。」
大津様はこの結論を出されるまで散々悩み迷ったのだと思う。
でも今は、ひとつの曇りもなく自分の導き出した結論を信じ、私の涙を見ても揺らぎはなかった。
「大名児、そなたを抱かせてくれ。今宵はそなたを離さない。吾の体にそなたを焼きつけ、そなたの体に吾を焼きつけたい。それがもう1つの我が願い。そなたのその体で吾を憶えていてくれ。」
大津様の声は低くくぐもっていた。
それからあとは私達は命のきらめきを精一杯体に記憶し合った。


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Posted by jasmintea♪ at 21:13│Comments(0)小説
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