2007年08月08日

翼をください

明日香は重苦しい雰囲気のまま表面的には目立った動きもなく9月を迎えた。
宮では皇子、王、諸氏が作り献上した観世音菩薩像百体をスメラミコトの寝所の次の間におさめた。
最近では呼吸が止まることもあり、もうスメラミコトの命の火はいつ消えても不思議はない状況であった。
9月4日、皇后様は宮のスメラミコトの寝所において、高市様始め皇子、王、諸氏の長は川原寺において病気平癒のための法会を行った。
川原寺は黒と紫の衣であふれていた。
各氏族の長の中ではスメラミコトの病気平癒をそっちのけでひそひそと話をするものがあとをたたなかった。
スメラミコトが崩御し大津様が立った場合味方につくか否かが諸臣の苦悩であった。
みな壬申年の戦を記憶しており選択を間違えれば家族や官位、財産すべてを失うことがわかっていた。
負けた近江朝についた人達が赦され命は長らえたものの活躍する場もなく冷や飯を食わされたことは鮮明に人々の記憶の中に染み付いている。
『スメラミコトは大津様と草壁様、どちらも選べず政治を預かっていた高市様に託したので高市様はつなぎのような存在でいずれ2人の皇子のどちらかに皇統を譲られるだろう』、『いや、大津様は高市様が皇后様に遠慮し草壁様に譲られるのはわかっているのでここで新羅の力を借り一気にご自分が帝位を狙ってくるだろう。』などとヒソヒソ声で話した。
そんな人々の口の端を重苦しく流れる観世音経の読経がかき消していった。

皇后様は史に法会の様子の報告を受けていた。
「スメラミコトの病気平癒に何と畏れを知らぬ所業。そんなにも人心は浮き足立っておるのか。」と、ため息をついた。
「御意。しかしながら新羅と組もうとする大津様には不信感が多く趨勢は草壁様支持にございます。」と、阿るように言った史に
「史、大津は新羅と組もうなどとはしておらん。」
と、険しい声で切り捨てるように言い放った。
「はっ。」
『皇后様、柊殿が急ぎの用件でお越しですが。』
「すぐに通せ。」
「では吾はこれにて。」
気まずい沈黙の直後だったので史は腰を浮かしながら言ったが皇后様はこの場に残るように指示をした。
「良い。そちもおった方が良かろう。」
「皇后様、柊にございます。」
「柊、挨拶は構わぬから用件を先に述べよ。」
「はっ。筑紫の我らが長から連絡が参りました。新羅の軍船が3艘出港したそうです。」
…朕は鳥肌がたってきた。とうとう、そこまできてしまったのか。
「1艘は小さめの船、これはどこぞの小さな港に目立たぬよう入り大津様の身柄を確保するために動くものと思われます。あと2艘は兵だけで20前後、計40くらいで壱岐の沖に停泊し、小さな船から大津様を乗せ護衛するためと思われます。」
皇后様は大きくため息をつきこめかみを押さえながら訊いた。
「それで翁はどのように致せと?」
「そこまでは申しておりませんが今の手立てとしては訳語田の動きから目を離さないようにするしかありません。」
「そう言い警戒をしていたのに大津が新羅の使者と会うのを止められなかったではないか。」
…いけない、言ってはいけないことを言ったと朕は後悔した。
こんなにイライラしていてはダメだ、周りの信頼を失ってしまう。
「史、柊、すまぬ。朕を信じ忠誠を尽くしているそち達にあたってしまった。この通りじゃ、済まぬ。」
「皇后様、そのようなことは!」
「少しお疲れなのではございませんか?今日はもうお休みになられたら如何でしょう?」
「そうじゃの。続きは明日にでも考えるので2人ともここへ寄っておくれ。ご苦労であった。」
2人は頭を下げて退出した。

執務室を出、部屋に戻ると次の間で雨乃が待っていた。
「皇后様、お戻りなさいませ。」
「雨乃、どうしたのじゃ?」
「特に用はございません。良かったら皇后様と夕飯を一緒にと思い伺いました。」
柊から何か聞いたのじゃな、と思いながら最近報告を受ける以外は1人で考え込むことが多い朕は嬉しかった。
「そうじゃ、たまには柊も呼んでは如何じゃ?」
「はい。」
「志斐、柊に部屋にくるように伝えておくれ。あと柊は酒が好きじゃから用意しておくれ。つまみはの、、」
誰かと一緒に食事をできることは嬉しいことだ。朕はさっきの焦燥も忘れ、志斐にいろいろ指示をしている。
志斐は嬉しそうに「ひめみこ様、そんなに一度におっしゃられても志斐は覚えきれません。」と言った。
最近は沈みがちな時が多かったので心配していたのであろう、彼女もやけに嬉しそうだ。
その夜は久しぶりに心安らぐ夜を過ごした。
雨乃は幼き頃に母上が歌ってくれたと言う「竹田の子守唄」なるものを聴かせてくれた。
『守りもいやがる 盆から先にゃ~』
どことなくもの悲しげで雨乃の澄んだ歌声によう合い、懐かしい気分にさせてくれる。
「これは『赤い鳥』と言う人達が歌っているのですが『朱鳥』ですね。」と1人微笑んでおった。
「他の歌も歌っておくれ。」
「そうしましたら私が大好きな同じ赤い鳥の『翼をください』を。」
『いま、私の願いごとが叶うならば翼がほしい。子供の時夢みたこと今も同じ夢にみている~』
…朕も天翔ける翼がほしい。翼があれば悲しみのない世界に行けるのであろうか?
子供の頃から夢見ていた祖父様や叔父上、母上が悲しむことのない優しい世界へ。
草壁だ、大津だと争うことも、他国から我が子を狙われるようなこともない自由な世界に。
「雨乃、この歌はほんに良い歌じゃの。今度ゆっくり朕に教えておくれ。」
「はい、承知いたしました。」
朕は雨乃の歌うこの歌がずっと頭の中に残っていた。

この夜が心落ち着く最後の夜だったかもしれない。
この夜から5日後、スメラミコトは天に召された。


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Posted by jasmintea♪ at 12:58│Comments(0)小説
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