2007年09月29日

水底から

私は深い暗闇の中にいる。
海の底は光がなく雪は下から上へ降りそそぐ、と聞いた。
たぶんそんな水底に体が浮いているような状態だと思う。
この水底が大津様の命を奪ったあの池に繋がっているなら嬉しい。
今は何も見えない。何も聞こえない。何もしたくない。何も食べたくない。
このまま何も口にしなければ大津様の元へいける。

私がそんな思いに捉われていた頃周りの人々は暖かく私を包んでくれていた。
阿閉様は草壁様の看病がお忙しいなか早朝に私の部屋にやってきて私のお腹を見ては同じ膨らみ具合にサラシを巻いていく。
大津様と私の子供を守り育てることを決意した阿閉様は他の人に気付かれないようサラシを巻くのが日課となっていた。
氷高様は勉強や格別の用がない限りここで時間を過ごす。
返事もしない私に向かいいろいろなことを話しかけていく。
「今日は軽がイタズラしてね侍女の裳裾を踏んだの。そしたらこんなに侍女がビックリして派手に転んで軽は母上に『軽、人を危険に晒すようなイタズラはしてはなりません。』ってひどく叱られたのよ!」と、笑っている。
氷高様の身振り手振りの説明と人真似がおかしく普段は感情を顔に出さない柊も思わず笑っていた。
柊はいつも私のそばにいた。目を覚ますと私の半身を起こし水を口の中に入れる。
食べ物を受け付けないことをわかりながらも食べさせようとしていた。
武人の柊からは想像できないきめ細やかな看病だった。
周囲の人に感謝の念を持ちながらも何もする気力が湧かず私は死を望んでいた。
いや、本当は生きようとしたかったが生き方を忘れていたのかもしれない。
大津様の死から1ヶ月半、私はまだ深い水底に眠っている…。

そんな中、杳として行方の知れなかった茉莉花様が突然嶋の宮を訪れた。
柊は茉莉花様の顔を見ると子供のように泣き出した。
「茉莉花様」
茉莉花様は驚きながら宥めるように優しく訊ねる。
「どうしたのじゃ、柊。子供のようぞ。」
「心配いたしました。翁は今どちらに?」
「今は言えませぬがお元気です。猪木がそちが参っておるゆえ訪ねて下さい、と幾度も文を寄越すので取り急ぎきました。」
「茉莉花様、雨乃様は約2ヶ月何も召し上がりません。このままでは雨乃様もお子もダメになってしまいます。どうしても一度茉莉花様に診て頂きたかったのです。」
茉莉花様は静かな目で私を見つめた。
「雨乃様、肝心な時に駆けつけられずに申し訳ありませんでした。」と、頭を下げた。
「こんなにお痩せになってはいけません。こんな状態でもお子が流れなかったのはお子が生きたいと願っているからですね。大津様に似て強いお子にございます。」
「大津、、様…。」
事件後初めて発した声だった。
「そうです。大津様は雨乃様が愛したお方です。大津様は雨乃様がお子と一緒に強く生きることを最後の瞬間まで願っていた、と聞いています。雨乃様に大津様は何かおっしゃいませんでしたか?」
「吾は光になりそなたを包むから強く生きてほしい…」
「そうですか。雨乃様はその言葉を聞いてどう思われたか憶えていますか?」
「イヤだと…。死なないで生きてほしい、と、思った…。」
「私も愛する人にはいつまでもそばにいて欲しいと思います。雨乃様は大津様にそうおっしゃったんですか?」
「いいえ。悲しくて何も言えなかった。止められなかった。何も言えないままに大津様は部屋を出ていってしまった。」
枯れていた私の感情を溶かすように暖かな涙が頬を伝う。
「それが悲しくて、悔しくて、後悔をしているんですね。」
私は黙ったままこっくりとうなづいた。
「でも、それは雨乃様のせいではありません。ご自分を責めないで責めるなら大津様を責めて下さい。」
「でも、大津様はいない。もう大津様はどこにもいないの!」
涙が次から次へと溢れあとは言葉にならなかった。
しゃくりあげ子供のように泣く私を茉莉花様はずっと抱きしめ背をさすってくれていた。
「大津様、どうして死んじゃったの?私と子を残して。どうして山辺様だけが大津様のところへ行ったの?私はここにいるのに。どうして!どうして!!」
私は泣きじゃくりながら大津様への恨みの言葉を吐いていた。
今までの思いを吐露したくさんの涙を流し、少し感情が落ち着いてきた頃に茉莉花様は聖母のように優しく言う。
「雨乃様は心底、大津様を愛した。その方の命を残したくはありませんか?」
私はコックリとうなづいた。
「そうしたらこれをお飲み下さい。」
差し出された薬湯を飲む。
「苦い…。」
「苦いとおわかりで安心しました。」
茉莉花様はニコニコ笑っている。
「無理して笑ったり話したりしなくて良いのです。ゆっくりと過ごしましょうね。」
「はい。」
「あら、お返事が返ってきたのは良いことです。しばらく茉莉花がおそばにいますから安心なさって下さい。」
「茉莉花様、ありがとうございます!」
柊は心から喜んでいた。
今までどしゃ降り続きの雲の切れ間から薄日が射してきたような気がした。


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Posted by jasmintea♪ at 20:39│Comments(0)小説
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