2007年06月30日

山吹の記憶

そうか、薬は殺されておったのか…

事件の経過の報告を受けていた皇后様は柊の言葉を反芻した。
「むごいことじゃの。それまで良いように使っておいて危なくなったらさっさと斬りおったか…。柊、この件は高市に伝えないわけにはいかないのぅ。後々高市が知らぬでは支障をきたすやもしれぬ。それに大津を守るには高市の理解が必要じゃ。」
「御意。」
「道作は大津にはこの件は告げぬかのぅ。」
「今の時点ではお話にならないと思います。あとの動きで心配なのはスメラミコトが再び病に倒れられた時…。」
「翁の占の大津の影はやはり新羅との関係じゃの。本当に道作が主の大津を思うなら余計なことは考えぬべきじゃ。何故、御位に立てなければ身が立たないと思うのか?己の即位に他国の手を借りるなどありえません。それが大津の破滅になるのが何故わからぬのかの。大津は人を使い捨てにするようなことは嫌うのに主の気持ちも見えぬのか。」
「皇后様、」
「すまぬ。詮無いことを言ってしまった。」
「ところで雨乃様のお姿を最近見かけませぬが。」と、柊は話題を変えた。
「柊、雨乃の姿が見えないと気になりますか?」
「いえ、そういうワケではございません。」
皇后様の冷やかすような眼差しに柊はしどろもどろに答えた。
「雨乃は嶋の宮で草壁の看病と氷高の相手をしてもらっておる。あの娘は敏いゆえゴタコタしているとすぐに気づき心配するからの。雨乃が草壁をずっと看てくれたおかげで草壁は体調が戻ってきた。何やら草壁の食べる物を自分で用意し、残すと『ちゃんと計算しておりますのでこれだけは召し上がって下さい』と怖い顔をするそうじゃ。数日中に草壁が出仕する時に一緒に戻る予定じゃ。」
「草壁様のご回復、おめでとうございます。」
「快くなればまた厳しき世界に身を置かねばならぬ。それが草壁にとって幸せなのかのう。さぁ、朕はちょっと高市のところへいって参ります。」

高市様の執務室

「これはこれは皇后様、お呼び頂ければ吾の方から参上致しましたものを。」
「いえ、近頃の朕は暇なのです。高市は忙しいのじゃから気にせずとも良い。」
「何か大切なお話でも?」
「難波宮が焼失したのはご存知ですね?」
「はい。」
皇后様は今までの経過を正直に話した。
「皇后様、お話ありがとうございます。まずは迅速な処置に御礼を申し上げます。皇后様のご決断でこの国は救われました。念を押すようで申し訳ございませぬが大津には関わりのないこと、でございますね?」
「そうじゃ。」
「新羅は何故大津の即位を望むのでしょう?」
「大津の即位を望むのではなくこの国を混乱に陥れたいだけじゃ。壬申年の戦の折りのように2つに割れればその隙に乗じて片方を支持し自分達の傀儡政権をたてる。大津でなくとも反旗になるのなら誰でも構わないのでしょう。大津もそれを承知しておるのに廻りの者が暴走している…愚かなことです。」
「兵を引き入れたらその後どうなることかは想像がつきそうなものですが…。大津の即位と引き換えに国を差し出すつもりなのでしょうか?」
「そこまでは考えていないのであろう。高市、朕も先日のスメラミコトのなさりようには正直腹も立ちましたがすべてはそちの肩にかかっています。この国のこと、草壁と大津のことよしなに。」
「皇后様、そんな、、お顔をお上げ下さい。実は吾はもう一度皇后様にお願いに上がるつもりでした。今ここでお話申し上げてもよろしいでしょうか?」
「何でございましょう?」
「吾はスメラミコトから後継として指名されましたが経験も知識もなければ政を助けてくれる一族もいません。盛り立ててくれる後ろ盾なくば吾一人の力では何もできないでしょう。大変厚かましい願いではございますが皇后様に吾の後ろ盾になって頂きたいのです。吾は御位に執着はございません。ただ父上の期待を裏切りたくはないのです。父上と皇后様が作られたこの国をそのままに草壁に渡したいのです。」
そこまで一気に話して高市様は遠くを見つめるような目をした。
大きく息を吸って再び口を開いた。

皇后様、年月が経つのは早いものでございますね。
あの壬申年の戦からもう14年も過ぎておりまする。でも吾は今でもはっきりと覚えています。
血の臭い、泣き叫び許しを乞う声、その声を無視して容赦なく斬る音とあの刀の鈍いゆらめき、首が離れた骸…あれは地獄の様でした。
今思い出しても、気持ち悪さに反吐が出そうでございます。
父上のために、己が信のために吾は戦いましたがどんな理由があろうと人を殺めたあの感触は消せません。
吾が斬った者にも吾と同じように愛しい者がいてそれを守るために、または自分の信のために戦っていたはず、この者の死を知りこの者を愛する者たちはどれだけ悲しい想いをするのであろう?と戦が終わったあとの屍の中で考えていました。
もうあのような場所には二度と立ちたくございません。
そしてもうひとつ、吾はどうしても忘れることができないのです。
いや、忘れることができないどころか苦い思いは未だに強まっているかもしれません。
山吹の女性(ひと)、、父と夫の戦いをただ見るだけしかできず自分が戦を止められなかったことを苦悩し続け罪の意識で自ら死を選ぶしかなかったあの女性を。

…高市、まだ十市のことを。

吾は守りたい女性を守ることができなかった愚か者にございます。
人は一番暖かで優しかった時代を記憶していると、言いますが吾の記憶の中には木漏れ日の中を笑いながら駆ける十市がいます。いつも吾の側を離れなかった幼き頃の十市が。
あの活発だった少女が近江から戻ってきたあとは虚ろな笑みしか浮かべなくなりました。
もう一度あの笑顔を見たかった。それなのに…。
たぶん吾は死ぬまで山吹の花を見ると守ることができなかったことを悔い、胸を締めつけらるのでしょう。
十市の心の闇は如何ばかりだったのか、黄泉の国では微笑みを取り戻しているのか…。
じゃがもし大友と一緒に虹を見て微笑んでいるのなら妬けますな。
吾も1日でも早く十市のところへ行ってあげたい、この世でみられなかった微笑はあの世で見たい、と思いつめたこともございました。が、今は少し違います。
もし、吾が何もせずただ生ける屍のまま生涯を終えあの世に行けば十市は吾に微笑んではくれないような気がするのです。
もう誰も十市のような想いはさせない、もう誰も吾のように虚ろに後悔の中で時間を送るようなことはさせない、その想いを貫き吾なりに精一杯生き黄泉の国へ辿りついた時に十市はこぼれんばかりの微笑みで吾を迎えてくれるのじゃと思うております。
『高市、ちゃんと見ていたわよ、お疲れ様でした』と。

ふぅ、と高市様は小さくため息をついた。
「少しお喋りが過ぎました。申し訳ありませぬ。」
「高市、そちも行き場のない想いを抱え空虚なまま日々を過ごしていたのですね。そちの想いは朕にはよくわかります。本当に、我らはどのくらい悲しく虚しい想いをして今を築きあげてきたのでしょう。無念を飲んで逝かれた方々の想いを無駄にしてはなりませぬ。」

…無念を飲んで逝かれた方々、朕は幾人の無念を目の当たりにしてきたのか。
朕の暖かで優しかった時代の記憶…


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Posted by jasmintea♪ at 19:38│Comments(0)小説
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