2007年07月05日

不安

「大名児、」
「はい。」
「吾がここまで回復できたのはそなたのおかげじゃ。礼を申す。」
草壁様は私に向かい頭を下げた。
「とんでもありません。翁の命水のおかげです。」
「もう吾はこの命は先は短いとあきらておった。でもの、せっかくそなたが吾に生きる楽しみを教えてくれたからもう少し頑張らねばならぬ。」
「はい。阿閉様や氷高様、軽様のためにも。」
「そうじゃの。そなたも大津と仲良く過ごすのじゃぞ。あれはああ見えても寂しがりやの甘えんぼうじゃ。」
「よーく存じております。」
私はおどけるように言った。
草壁様はハハハ、と笑いながら、
「吾は父上のあまたおる女性のことで心を悩ます母上を間近で見ていたので妻は1人で良いと思っておった。じゃが大津は山辺を娶っても派手に遊んでいての。吾は余計なことじゃが大津に女遊びはやめよ、それでは父上と同じじゃ、と諭したのじゃ。そうしたらの、大津は何と言ったと思う?」
「わかりません。」
「『草壁、吾は遊んでいるのではない。この世でたった1人の相手を探しておるのじゃ。相手がみつかったらその人のことしか見ない。だからそれまでは多目に見てくれ』と。ハハ、そう言えばの、最近大津が構ってくれなくなったと宮では采女も女官も嘆いておる。どうやら大津は言葉通り一生の女子を見つけたようじゃの。今までとは人が違う。あの大津が1人の女子と決めた女性はどのような絶世の美女かのぅ。お目にかかりたいものじゃ。」と、私をからかうように言われた。
「山辺はの、」
「はい。」
「蘇我赤兄の血統なのじゃ。父上の妃である大ぬ殿と姪と叔母の関係で繋がっておる。」
私は頭の中に家系図を描きながら話を聞いていた。
「大ぬ殿は同じ蘇我の血でありながら我が父祖石川麻呂の血統ばかりが重んじられ赤兄の血統が軽んじられることを不快に思われていての、それは壬申年の戦で罪人とされたのじゃから仕方ないことなのじゃが…。それで皇太子になるかもしれない大津の妃に自分と同じ血が流れる山辺にするように父上にお願いしたのじゃ。母上は大津の妃には阿閉の姉である御名部の心積もりでおったのじゃが父上が強引に押し切ってしまった。いくら父上が大ぬ様を愛しく、哀れに思われても大津は厄介者を押し付けられた形でみな同情しておった。それでも大津は山辺を受け入れ大切に遇しておる。それが大津の凄さなのじゃが己の気持ちは癒されていなかったのであろうな。」
「そうなのですか。そんな経緯があったのですか…。」
「そうじゃ、しかしそなたは何も気にする必要はない。大津のことだけを考えれば良いのじゃ。吾の病で大津と会えぬ日が続き悪かったのぅ。大津にもよしなに伝えてくれ。」
「かしこまりました。」
と、私は草壁様にお辞儀した。
草壁様がこんなにお元気になられたことは嬉しいのだが話している間「何かが違う」と感じていた。
今までと明らかに違うこと…そう、草壁様にタカミムスビ神を感じない。
私をここに連れてきたことも、大津様と草壁様が入れ替わっていたことも、もしかしたらタカミムスビ神の声を聞いていたことさえも記憶がないのかもしれない。


「大名児、」
「はい。」
「そなたは名前を呼んだだけなのに何故そんなに嬉しそうなのじゃ?」
大津様はおかしそうに不思議そうに尋ねた。
「だって大津様がこうして近くにいて下さることが嬉しいのです。」
と、草壁様の話を思い出しながら答えた。
「それは吾も嬉しいがそんなに嬉しそうな顔をされると次の話しが切り出しにくくなるではないか。」と、微笑みながら言われた。
「何か大切なお話ですか?」
「いや、やはり良い。」
「大津様、、何でございますか?」
「わかった、わかった。そう怖い顔をするでない。本当はそなたに聞くべきことではないと思うたのじゃが吾には他に相談できる人がいない。」
「何なりとお話下さい。」
「うむ。最近妙な噂を耳にしての。」
「はい。」
「そなた、難波宮が焼失したことは存じておるな?」
「はい。阿斗連薬の失火という?」
「そうじゃ。それに道作が関わりがあると言うのじゃ。」
「道作が関わりですか?どのように???」
そう言えば以前新羅の者に尾行された時、最後は難波に消えたと瀬奈が言っていたっけ。何か関係があるのだろうか?
「吾は直接話を聞いてないのでよくわからんのじゃが道作は美濃の者を大量に召し抱え難波に送っていたそうじゃ。その者らが火事により任を解かれたのじゃがかなり待遇が良かったらしくての、他の舎人にまた仕事がないか聞いてきたそうじゃ。道作がそんなに財があるはずもないし、何故難波宮修築に人を送っていたのかもわからぬ。道作に問うてみたがその者の勘違いなどと言うておるのじゃが目をそらしたのじゃ。」
「目をそらす、ですか。何かを隠している?」
「そうじゃ。その通りじゃ。最近道作は不在がちだったのじゃ。何かと理由をつけての。好いた女子でもできたかと思うていたがあの火事より出ることが少なくなった。」
「でもあの道作が隠し事など考えられません。」
「そうなのじゃ。だから吾も悪い予感がしての。自分の手の届かぬところで何かが始まっているような怖さがあるのじゃ。」
「…」
「道作は吾の父親代わりじゃ。吾は2歳から壬申年の戦まで父上とは離れておった。戦のあともスメラミコトとして父上は忙しかったからの。幼き頃より吾を守り育ててくれたのは道作じゃ。吾にとってはこの上なく大切なのじゃ。」
「大津様、今の話を道作になされてからもう一度難波の件を聞いたら如何ですか?大津様のその言葉を聞き、道作への思いがわかれば心を開くかもしれません。」
「そうじゃな。そなたの言う通りじゃ。そなたは吾に愛や優しさだけではなく勇気をも与えてくれる。そなたがいてくれて吾は救われる。」
私は大津様の広い胸に抱きとめられ2人だけに時間は流れた。

そして翌日、
大津様は道作と向かい合っていた。
「道作、早いものじゃのぅ。壬申年の戦からもう14年も経っておる。あの折りよくぞ吾を守り近江の宮から脱出させ父上の元へ連れていってくれた。今、改めて礼を言うぞ。」
「いいえ、皇子様、それは臣下として当然のことでございます。」
「いや、そちは臣下としてではなくいつも吾を父親のように見守り尽くしてくれておる。吾はそちに感謝しておるのじゃ。」
「そのようなお言葉はもったいのうございます。吾はまことに皇子様のような御方にお仕えできたことを誇りに思います。皇子様のためならどんなことでもいたします。」
「のぅ、道作。」
「はい。」
「そちは肉親には縁薄い吾を肉親以上に慈しんでくれた。万一そちが吾のためにその身を捨てようとした時はの、吾も父と慕うそちと身を滅ぼす覚悟じゃ。」
「皇子様…そのような…。」
「吾のそちへの想いを話しただけじゃ。そちは気にせずとも良いぞ。」

大津様はそれ以上は何も話さずその場は終わった。
大津様と道作、この主従のつながりの強さを私はまだ理解できていない。


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Posted by jasmintea♪ at 12:43│Comments(0)小説
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