新たな…

jasmintea♪

2007年09月30日 13:48

朕は何をする気力も湧かなかった。
政は高市が見ている。
高市は誠実な人柄で決断力には欠けるものの人情に篤く人を大事にする。
実務はすべて几帳面にこなすので亡きスメラミコトも信頼していた。朕も何も心配することはない。
大津の事件以来朕の周りには誰も人がいなくなった。
草壁は臥したまま、雨乃は立ち直れず、翁は行方不明、「大津様と山辺様を死に追いやった皇后は呪われている」、など口の端にあがり朕は二重三重に傷ついていた。
寂しさともどかしさと切なさから食も細くなり食べたものも受け付けず見る間に痩せていった。
この年になり痩せると顔には皺が深く刻まれ、髪は白くなり鏡を見ると百歳の老婆のようである。
自分の怖いまでの顔にショックを受けた朕は人と会うことを極力避け時間だけが過ぎ去っていくのを眺めている生活になった。
このまま死んだらどんなに楽か。
唯一、大嶋だけが毎日訪ねてくれて几帳越しに表向きのことや世の動きをを独り言のように話していった。

そんなある日阿閉が訪ねてきた。
入ってきた阿閉は大きなお腹をしていた。
「姑上様、ご無沙汰しておりました。」
「阿閉、そなた…」
「本当に子がいるように見えるよう毎日サラシを巻いているのです。草壁様に大津の子を謀反人の子として育てるわけには行かぬ、吾の子とし育てる、と言われた時より私は大津様と雨乃様のお子を我が子として守り育てる決心を致しました。ですのでこの子は私の子です」、とお腹を愛しそうに撫で微笑んだ。
「毎日サラシを巻くのは大変でしょうに。」
阿閉は大丈夫、と言うように微笑みながら
「ところで姑上様、もしよろしければ今日我が宮にお越し頂けませんか?」と言った。
「何か用でも?朕は特別の用事がない限り外出は面倒じゃ。」
「とびきりの用事にございます。阿閉も手伝いますのですぐお支度を。」
と、阿閉は志斐に指示をし輿を回した。
朕は仕方なく輿に揺られ嶋の宮に向かった。

嶋の宮に着くと草壁が迎えてくれた。
「草壁、そなた歩けるようになったのですか?」
「はい。あるお方に診てもろうたらすっかりよくなりました。」
「それは良かったこと。母も安堵しました。」
「大嶋が毎日ご機嫌伺いにくるのですが、母上のことをひどく心配しておりました。母上も同じお方に診てもろうたら気の病だけでも治るのではないか?と言うので阿閉を迎えにいかせました。」
「大嶋は嶋の宮にも毎日寄ってくれたのですか。」
「はい。」
「草壁、大嶋の気持ちもそなたの気持ちもありがたいが朕は誰とも会いたくないのじゃ。」
「まぁそう申されずに…。」
「白湯をお持ちしました。」
声の懐かしさに反射的に振り返ると優しい笑みを浮かべるお腹がふっくらした雨乃が立っていた。
「雨乃!」
思わず椅子を倒し、駆け寄り抱き締める。
「雨乃じゃ。幻でも夢でもない。雨乃!よく元気になってくれた。よく子も無事であってくれた!」
朕は喜びに涙を流していた。
「皇后様、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。皇后様、お手をよろしいですか?」
朕は雨乃の誘いでおそるおそる手をお腹に伸ばす。
ムニュ、ムニュ
「動いておる!」
「はい。このとおり元気に動いています。」
「雨乃、大津の子なのじゃの。大津の子がここに!」
朕はしばらく赤子の胎動を手に感じ取っていた。
赤子はずっと動いている。今のは足で蹴ったのであろうか。時々大きく動くことがある。
この動きが命なのだ。
「母上、しばらくこの宮で吾や阿閉、氷高、軽、柊殿、雨乃と共に暮らしませぬか。せめて体調が戻られるまでここにおられては如何でございましょう?」
「草壁…ありがとう。」
「吾も今まで大津への思いばかりに捉われ母上をお1人にして申し訳ありませんでした。吾も、雨乃も大津の思いを忘れておりました。叔母上に孝養を尽くしてほしい、大津は最後に吾に頼んだのです。」
「私には山田寺の法要に吾の代わりに付き添ってほしい、と。」
「大津がそのように。」
「さぁ、姑上様、今日は久しぶりにみなで夕飯を頂きましょう。氷高がとても心配しておりましたので喜びます。」
その日、朕は久しぶりに食べたものを戻すことなく楽しい夕食を頂き雨乃と同じ部屋に寝た。
雨乃は寝る前に丁寧に朕の髪を梳いてくれた。
「皇后様、必ず強い子を産みます。私は子を阿閉様に預ける覚悟はできておりますがどうか皇后様がお元気になられてこの子の後ろ盾となって下さいますようお願い申し上げます。」
と、お腹をさすりながら言う。
そうじゃ。朕と大津の血を継ぐ孫の為にしっかりせねば。
父親のいない子を守ってやるのは朕しかいない。大津を守ることができなかった分もこの子を。

翌朝、「もっとゆるりとなさって下され」、と勧める草壁の言葉に礼を言い朕は宮に戻り大嶋を呼んだ。
「雨乃様の魔法は皇后様にはよう効きますのぅ。」と、薄くなった頭を撫でながら言う。
「大嶋、そちには礼を申さねばならぬ。まず大津を看取ってくれたことを感謝する。」
大嶋は何か言いたげに口をモゾモゾ動かしかけたが言葉を飲み込んだ。
「何か?」
「いいえ、何でもございません。」
「何もなければ良いが…。それと毎日朕を見舞い嶋の宮も訪ねてくれていたそうじゃの。」
「臣下として当然の務めにございます。」
「大嶋、朕はそちの忠義に応え以降藤原の者を子々孫々に至るまで引き立てようぞ。」
「もったいないお言葉。」
大嶋は平伏していた。
「草壁が即位する時はそちが天つ神の寿詞を読んでくれ。大嘗祭の天神寿詞も頼むぞ。」
「皇后様、身に余る光栄にございます。我が藤原一族は未来永劫天皇家に忠義をもって仕えることを大嶋、約束いたします。」
朕と大嶋は強い信頼関係により結ばれていた。

-この後藤原大嶋は史と共に高市から草壁への禅譲のため朝堂内で動き、草壁薨去後は持統天皇の即位を支え、草壁の菩提を弔うために粟原寺を建立し死ぬまで彼女に忠誠を尽くした。
又甥が彼女の孫を手にかけるなどと夢にも思わなかったに違いない。

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