2007年05月10日

新羅僧 行心

初めて大津様に抱かれた夜は幸せだった。
私がこの世に生を享けたのも、この時代に引き寄せられたのもすべては大津様と愛し合うためだったのだ、と思えた。
これから大津様と泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりしながら一緒に時間を重ねていける、私はただ1人の男性のためにだけ存在して、その人はただ私のためにだけ存在している。
その髪1本、1本、指先、目、大津様のすべてを見ていたくて一晩中時間を過ごした。
誰かの愛を受け入れ、喜びを分かち合うことがこんなにも素晴らしいことを私は初めて知った。
その想いは大津様も同じであったと思う。


そんなある日、狩りで負った傷の手当てをしている私に大津様は話しかけた。
「大名児、吾より人を見る目に敏いそなたに頼みがある。吾と一緒に内密に人に会ってもらいたいのじゃ。」
「内密に?どんな方でしょう?」
「帰化僧なんじゃが、、いや、、あまりそなたに先に話をしない方が良かろう。会ってそなたの印象を教えてもらいたい。」
「それはわかりましたが私に会いたいとその者が言い出したことなのですか?山辺様もご一緒ですか?」
と、包帯のような布を巻き終えた私は大津様の真意を探るように目を覗きこんだ。
「山辺は同席せん。会うのは道作とそなただけじゃ。」と答えた。

それから2日後、私は新羅の帰化僧に会った。
「大名児、この者が行心じゃ。行心、吾が何よりも大切に、誰よりも愛しく思うておる大名児じゃ。」
行心は顔をあげ「お初にお目にかかります。行心と申します。」と形通りの挨拶をした。
そして不躾とも思える視線で私を見たあと、
「皇后様のご信頼を得て、草壁様のご寵愛を得て、なおかつ大津様と付き合う女性とはどんな方かと思うておりました。」と、面白くなさそうな表情で言った。
そして間髪入れずに
「実は妖魔(まがもの)ならば大津様のおんために斬ろうと決意して参りました。」
と、低い声で言い殺気を見せた。
…殺気だつ僧なんて変だよね、と殺気の対象は自分なのに高校生の時おばあちゃんが亡くなったお葬式の席で泣く私に優しく説教をしてくれた現代の僧を思い出し、比べながら私は心の中で苦笑していた。
「大名児様、あなたはこの僧が怖くないのですか?」
私の心の中の苦笑がこの人に伝わったようだ。もう殺気は消えていた。
「やつがれは斬るだの妖魔だのと嚇したり、皇后様や草壁様のお名も出しあなた様を挑発して怒らせようと思ったのですが。」
と、拍子抜けしたように言った。
「ワッハッハッハ」大津様の笑い声が響いた。
「行心、一本とられたのぅ。」と、笑顔で言いながら真顔に戻り、
「行心、そして道作にも言うておく。大名児はこのような女子じゃ。皇后様もこの気性を愛で傍に置かれている。そちらは大名児が皇后様の密偵かと思っているようじゃがそれは違う。皇后様はご自分が愛しいと思う大名児を危険な陰謀に使うお人ではない。それに何より皇后様はいつでも吾を信頼下さっていて吾を探らせるようなことはしない。良いか。人々の口の端に惑わされるな。吾を信じ、吾の信じるものを信ずれば良い。」と諭すように言われた。
行心も道作もその場で平伏していた。

そうか。皇后様の元で暮らす私が大津様と付き合うことは人々の目にはスパイに映るのだ。
誰も皇后様の実子が大津様であることは知らないのだから仕方がない。
でも、皇后様は自分の子供だからどうこうと分け隔てする女性ではないし、小さい頃からスメラミコトと皇后様を見てきた草壁様は阿閉様以外の妻はいらないと言っているのに。
と、言っても噂とは何も知らない者が流すのだから理不尽だが致し方ない。
しかし今日のこの席は大津様を大切に思うゆえに私のことを心配する行心や道作に「自分を信じよ」と不安を鎮めるため暴走させないためにと、私のことを周囲にわかってもらうために設けたのか。
大津様はスゴイ!
これは大津様が私の彼だからひいき目に思うことではない。
大津様ご自身は自分の地位ゆえに人がやってくる、と話していたが決してそんなことはない。
大津様のこの素晴らしさが、人格が人を惹きつけるのだ、と思い、こんなステキな人に寄り添える自分の幸せを改めて感じていた。

そんな夢うつつの私を現実の世界に引き戻すように大津様は言われた。

「ついでだからもうひとつ言うておこう。最近、父上は小康状態を保ってはいるものの、良くもなっていない。それで今、人心は惑うておる。
吾は確かに父上に言われ朝政に参与したものの次の皇位は既に草壁に決まっておる。
吾も高市の兄上も草壁を補佐していく所存じゃ。2人ともそれを忘れるではないぞ。」
この大津様の言葉に行心は不満そうに反論を始めた。
「大津様、お言葉を返して大変恐縮ですが民意は大津様にあります。スメラミコトの改革は大きな成果をあげこの国に安定をもたらしましたがまだ発展途上のものもあります。完成された国家でしたら草壁様のお優しさが『和』の象徴となりましょうがここはまだ皆を引っ張っていく『力』があるお人が必要でございましょう。それは大津様しかおりません。この国を強くして他国の魔の手から守られるのは大津様しかいらっしゃいません。やつがれは大津様のためにこの身を捧げるつもりでおります。」
「行心。そちの言葉はありがたい。しかしもう一度言う。吾は皇后様や高市兄上と共に草壁を盛り立てていくのが吾の使命だと思うておる。母上が吾を生んだあと病床に伏されていた時から、皇后様はいつも見えないところで吾を助けて下さった。草壁とは血を分けた兄弟のように育ったのじゃ。吾は恩を忘れるほど恥知らずではない。」
行心はまだ何か話したそうだったが言葉を飲み込んだ。

それから季節の山菜や筍、鹿の肉、焼き鮑などを肴にお酒を飲みながら大津様と行心は漢詩談義に花を咲かせた。
行心は知識も教養もあり、思慮深く、行動力もあり、意志も強そうで今後大津様の大きな力になるのであろう。
行心は大津様を尊敬し、大津様も行心と打ち解けている。
それなのにこの不安は何か?
私は行心が大津様の今後を左右しそうな予感がしていた。


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Posted by jasmintea♪ at 21:26│Comments(0)小説
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