2007年07月12日

不審火

明日香の夏の暑さは厳しい。その厳しさに耐えられず病身のスメラミコトはますます弱っていった。
健康な私達には心地良いそよ風さえ今のスメラミコトには害となる。
薬師の方針でスメラミコトの部屋は光を遮り、少しの風も入らないようにしたが、真夏がもう少しで通り過ぎていこうとする頃スメラミコトの病は死の病であることは誰の目にも明らかとなった。
死が近づくと子供の頃に魂が戻ると言われるが『神』と詠われたその人も同じであった。
死はどんな権力者にも、何の力を持たない人にも平等にやってくるのだ。
スメラミコトは遠い意識の彼方から醒める時は母上様か大田様を呼ぶ。
「母上、母上吾は…」と目覚め皇后様の顔が見えると「母上…そこにおられましたか。」と安心し再び眠りにつく。
そして「大田、大田何故吾を置いて先に行くのだ。行かないでくれ」と嗚咽にならない弱々しい泣き声で目覚め私の顔が見えると「大田、そこにいてくれたのか。」と安心し再び眠りにつく。
このような状態を他の方々に見せることはできない、との判断でスメラミコトの部屋に入れるのは薬師、高市様、皇后様と私、私達を支援している瀬奈だけとなった。

「雨乃、今日は朕がついておるゆえそなたは部屋に戻り休みなさい。」
「いいえ、皇后様こそお休み下さい。私はここにいるだけですが皇后様には政務がございます。お顔がひどくお疲れにございますからしばらくここにいらっしゃるならマッサージをいたしましょう。」
「そのような気遣いは無用。わかりました。そなたにはかなわぬ。朕は部屋で休みますからスメラミコトをよろしく頼みます。」
「はい。」
「ずっとここでスメラミコトを看ていては大津とも会えぬであろう。申し訳ないのぅ。」
「皇后様、そんな。」
頬を染めた私を見つめながら
「スメラミコトに縁も所縁もないそなたに病人を看てもろうてすまないと思うておる。」と頭を下げた。
「皇后様、そのようなことはございません。私の仕事は病人を看護することでしたので何もお気遣いなさいませぬよう。」
「ありがとう。そなたは強いうえに優しいのぅ。では明日の朝にはそなたに心配をかけぬ顔になって交代するゆえ今日はよろしく頼みます。」と優しく微笑まれた。
「おやすみなさいませ。」
…それにしても今日の皇后様はひどくお疲れだ。少しでもおやすみになられると良いのだが。

朕は疲れた体を引きずるように部屋に戻った。
頭が重くて鈍い痛みがある。
「ひめみこ様お戻りなさいませ。まぁお顔が本当にお疲れのようで、、、大丈夫でございますか?何かお召しあがりになりますか?それとも休まれますか?」
「志斐、そんなに一度に言わないでおくれ。」
「あ、申し訳ございませぬ。」
「今日はもう休むゆえ構わぬ。寝間の用意はできておるか?」
「はい。すぐにでもお休み頂けます。」
「ありがとう。では朕は休みます。もし何かあったらすぐにでも起こして下さい。」
「かしこまりました。」
と、その時、瀬奈が飛び込んできた。
「皇后様、皇后様!」
「こら!瀬奈、皇后様はひどくお疲れなのじゃ。騒々しいぞ。」
「申し訳ございません。でも、皇后様、大変でございます。どこぞで火の手が上がっております。」
「何ですって!」
「こちらです。」
皇后様と瀬奈、志斐は急いで外へ出た。
「本当じゃ。あれはどこじゃ!」
「皇后様!大変にございます。先ほどのすごい音の雷の時に火が上がりまして民部省の舎屋が燃えております。」
「柊、何じゃと?民部省の舎屋とは各地の庸を集め保管しておる蔵ではないか!」
「はい。忍壁様のお邸の隣にございます。ただ今忍壁様方は他の場所にお移り頂き皆様ご無事にございます。」
「忍壁は無事、それは良かった。それで火消しは進んでおるのか?」
「はい。折りよくこの雨ですのでじきに消えると思われますが庸は灰となるでしょう。」
「そうか…。庸はダメか…。じゃが落雷では致し方ない。」
「それが皇后様、、ここだけの話ですがよろしいでしょうか?」
「部屋に戻りましょう。」
「はい。」
「瀬奈と志斐はちょっとここで待っていておくれ。」
「はい。」
朕は柊と2人だけで部屋に戻り椅子に座った。
「何じゃ?柊。」
「はい。民部省の蔵より走る人影を見た者がおりました。先ほど麻呂様のところに連れていきました。」
「どういうことじゃ?」
「憶測で申し上げてもよろしいですか?」
「申せ。」
「たぶん落雷で焼けたのではなく誰かが火をつけたのかと。」
「何ですと?その麻呂のところに連れていった者がか?」
「いいえ、その者は走り去る怪しい男を見たと言っております。嘘をついている風でもなかったので逆に狙われては大変と麻呂様の元へ連れていきました。」
「その者は何と?」
「この暗さですので身体的特徴ももちろん顔もわかりませぬ。が、逃げた男は2人。何故男かと判断できるのかと言うと話し声が聞こえたそうです。それが男の声だったと。じゃが何を話しているのかわからなかったと言うのです。」
「どういうことです?」
「倭言葉ではない、と申しております。」
「あっ。」
それから少しの沈黙が流れた。
「柊、、そちの言いたいことはわかりました。ご苦労であった。ちょっと頼みたいのじゃがこのままスメラミコトの部屋に行ってくれぬか?今、雨乃が薬師とスメラミコトに付き添っておる。この騒ぎは伝わってないかもしれぬが火が出たことだけ伝えておくれ。そして今晩はそちはそのままスメラミコトの部屋にいて欲しい。宮の内とは言え何が起きるかわからぬからの。よろしく頼みましたよ。」
「承知いたしました。」
…今晩は一晩中雨乃様を見ていられる、こんな時に吾は何を考えているのじゃ、と思いながら高ぶる心を抑えられずにスメラミコトの部屋に向かった。


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Posted by jasmintea♪ at 12:44│Comments(0)小説
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